#11 抽象衝動と非相称の力動性
映画『2001年宇宙の旅』で、スタンリー・キューブリックは「モノリス」という超自然立体を月の裏側で発掘するという物語を描いている。これは継ぎ目がまったくない超硬度の物質からなる各辺の比率が1・4・9の直方体で、知的意思によって作られつつも、存在する意味、用途、目的が不明な未知の立体という設定である。映画では、わからないものに対する当惑、未知で精密に作られたものに対する怖れ、超越的な意思によるものではないかという畏怖や懸念など、この対象物に直面した人間達に複雑な感情や思索が沸き起こることが描かれている。

 W・ヴォリンゲルは芸術の発生に「抽象衝動」があるという。混沌として変化極まりない外界現象に対して、「単純の線や純粋に幾何学的な明確なもの」を作り上げることが芸術の発生の根源にあり、しかもこれは「感情移入」を阻止し、人間の恣意性を排除しようとするものであるという。人間のなかにある有機的な要素がまったくない、純粋で幾何学的な抽象立体や、単純な線形が作り出す明快さ、完全さ、そのようなものが結果的に与える揺るぎない安定と安息、それを作り出す人間の志向性を「抽象衝動」と呼んだのである。それまでの美意識が、たとえば美術の授業で石膏デッサンのモチーフになるギリシャ彫刻のような、調和的で生命の有機的な美しさに満ちたものを理想とするものだったとすれば、20世紀の初頭に現れた抽象芸術に対する新しい見方は、「抽象図形」「超越性」「怖れ」「驚き」「エネルギー」、そして「醜いもの」までも含めた、美意識の拡張を成し遂げたものであったといえる。

#6で紹介したミニマルアートの作家であるドナルド・ジャッドの作品には、純粋な幾何学立体が作り出す「明確さ」に対する強い希求がある。たとえば、縦横の比率が正確に1:4で、なかに何も入っていない箱形の空洞だけの彫刻作品がある。実際にこのような作品を前にすると、それが簡潔な比率で出来ているゆえに一瞬にして全体を把握してしまい、もうこれ以上何も解釈できないことがわかる。しかし一方で私達の目は右や左、あるいは中心を行きつ戻りつしてしばらく見る事をやめようとしない。そして意味を見出すことなく、ただ簡潔な幾何学立体の存在をあるがままに受け入れるようになる。このような現代美術の特徴の一つである「意味の抑制」、「作為的な表現に対する抵抗」は、ヴォリンゲルが「抽象衝動」と呼んだ「単純の線や純粋に幾何学的な明確なもの」を確立しようとすること、その際「感情移入」や人間の恣意性を排除しようとすることと、深い類縁性があるといえる。「モノリス」やジャッドの彫刻に見られる、意味を与えられぬままの直接的な幾何学の体験は、人間の最も原初的な衝動の一つを表わしているということもできる。
アイルランド、ミース州ニュー・グレンジの巨石
写真提供:アイルランド政府観光庁
話はかわるが、ヴォリンゲルは無機的な線形に人間の表現が加えられるようになった初期のものとして「雷文」や「渦紋」を挙げている。アイルランドの渦巻文様を例に挙げると、巨石時代の古墳の入り口にある石では、その全体を渦巻きが埋め尽くし、止まることのない運動がなかにあるものを封印しているかの印象がある。そしてよく注意して見ると、このような印象は「絡み渦連続紋」と呼ばれる図形が作り出していることがわかる。一つの渦巻きに見えるものは、実際には二つの渦巻きが互いに巻きこまれ合うことによって繋がりあっているのである。入ってきた流れは、もう一方の渦とともに出て行ってつぎの別の渦に繋がって連続する。ここには渦をめぐる終わりのない運動がある。

一方、「雷文」とはどこにでも発見されるジグザグ形状の文様で、「組飾り文様」や「卍」の祖先でもある。これは無機的な直線を角度をつけて組み合わせることによって、雁行状の「進み・曲がり・進み」という規則的なリズムを作り出すものであり、動的なものを秩序づけ静的なものと併存されるようにしたものだともいえる。自分達の周りの混沌として変化極まりないものを、純粋に幾何学的なものによって静的に安定させようとするモノリス的な抽象衝動に較べると、このような図形には、混沌とし変化極まりないものを、コントロールされた動的なバランスへと導くような性質が内在しているといえる。
運動やエネルギーは「渦紋」や「雷文」に共通して見られる特徴でもあるが、日本に古くからある「非相称」「雁行」といった形態の特徴は、「雷文」とよく類似する。その意味ではこのような形態には、運動やエネルギーが原型として存在しているといえる。

前回紹介したイサム・ノグチの彫刻が与える、自然面に対して空間の彼方から大きな秩序でスパッと切り取られているような印象、つまり人間による作為的な加工というより、もっと超越的なスケールの力が石に加わっているように感じられることや、以前紹介した利休や紹鴎の竹茶杓が作為性を抑制し、そのぶん自然の表現に還元的であることなどを改めて振り返ってみると、日本における文化のひとつの原型には、人間のもっとも原初的な「抽象衝動」が存在し、もう一方で非相称性をともなう力動性・エネルギーが存在しているということができる。。