#10 作為の抑制と抽象芸術
古作為的な表現の抑制、意図的な表現に対する抵抗は、私達の伝統的文化における特徴の一つといってよい。たとえば、先に紹介した千利休の「竹茶杓」では、竹の表面を残したまま、匙の部分にカーブをつけるという部分的な加工だけで「茶杓」を作り上げている。つまり自然素材の方に表現の比重を移すことによって、人為的な表現を抑えているのである。

これは単に「茶杓」の事例に限ったことではない。もう一つの「利休手作り道具」である「竹一重切花入」を例に取り上げてみる。この場合、竹という自然素材はもっと直接的に「花入れ」の造形に用いられている。これは立ち枯れて雪割れし、縦ひびの入った竹の幹を切り出して、上部に「窓」と呼ばれる人工的な切りこみを入れ、釘穴を加えただけのシンプルなもので、自然のもの、枯れたものを選択すること、再解釈すること、そのことがすでに造形の骨格になっている。  このような自然物の鑑賞の仕方、選び取り方は、私達の文化の得意とするところだ。それはたとえば、庭園の石組みの際に、自然のままの石の置き方や、それを見る方向などを吟味して、石の質量感、表情、周囲の空間との関係を作り上げていくことと基本的に同じである。しかも、このような石に対する美意識は平安期の築庭術までさかのぼる。さらには、もともとは古来の石に対するアニミズム的感情、自然石がもつ神聖さや呪術的な力に対する畏怖心、人間である私達との関係づけに端を発しているということもできる。材料とする自然素材を吟味し選択することは、どこの文化にも共通して見られるものであるが、それを自然のままで最後まで残しておこうとするのは、このような背景をもった私達の伝統文化において一つの大きな特徴であるといえる。
左千利休「竹一重切花入 銘・園城寺」桃山時代 (東京国立博物館)
右イサム・ノグチ「フシチョウ」花崗岩、123×68×50cm、1984年 ©SHIGEO ANZAI
作為的な表現の抑制、自然素材に対する態度は、現代の作家にも継承されている。イサム・ノグチは晩年に牟礼にアトリエを持つようになって、石に対する加工を減らすようになった。たとえば「皮面」と呼ばれる岩盤のクラック部分の風化した褐色の面や、楔を使って石理に沿って割った「割り肌面」、このような部分を自然面として残しながら、限定的な加工を施すことによって現代性をもった新しい作品群を作り出した。「時間という偶然の裏に石のリアリティを探求するには、素材に対する愛情を求めなければならない。石、物質そのもの、そのエッセンス、アイデンティティを披露したい。作為によって外からつけられたものでなく、その存在そのものを。石の皮の下に素材の光がある」(*1)。イサム・ノグチはこう述べながら、「皮面」、「割り肌面」に対する平滑な面のカッティング、鑿打ちの跡を残した部分的な加工、穴あけ、こういったさまざまな試みを作品として完成させている。 「フシチョウ…氈v(1984)は、花崗岩の「皮面」に、切りこみを加えただけの簡潔な作品である。晩年のこのような作品群が、新鮮で現代的な印象を与えるのは、やはり作品のなかの作為的、人為的な雰囲気が慎重に排除されていることによる。自然面を残して、空間の彼方から大きな秩序でスパッと切り取られているような印象、人間による作為的加工というより、もっと大きく超越的なスケールの力が石に加わっているように感じられるのである。

話は変わるが、1908年にW.ヴォリンゲルが『抽象と感情移入』という著作をあらわして、ピカソやブラックたちの絵画における革命に大きな影響を与えた。  それまで、未開で遅れているとだけ考えられていたアフリカのプリミティブアートや、さらに古い新石器時代における抽象的な壁画や彫刻、そして東洋の美術について、これを抽象衝動による芸術とし、固有の価値を与えたのである。それと同じ頃には、ルーマニア生まれのコンスタンティン・ブランクーシが原初的な新石器時代の生命感を彷彿とさせる、このような考え方のもっとも初期の彫刻群を作り出している。たとえば「眠るミューズ」(1910)は横たえた卵型の頭部の彫刻であるが、ここでは人間の顔のもつ再現的な部分を剥いでしまってそれを基本的な量塊にまで抽象化したのである。

「(抽象芸術は)再現的な形態に束縛されず、直接的に、無媒介的に、言いかえればこうした形態の媒介なしに、再現的な形態をまとった感動や、感情の状態よりも《純粋な》感動や感情の状態を呼びおこすことができる・・・」(*2、カッコ内引用者)。  20世紀の初頭に始まったこの「抽象」という考え方は、彫刻に限って言えば、ギリシアやルネサンスの人間的で美しい形態とは異なるプリミティブなものが、再現性を媒介とせずに直接人間の感覚に働きかけてくることの再評価であった。また、スミノーゼ《明確な表象をとるに至らない超自然的存在》に対する「畏怖と懸念」が作り出す抽象的な形態の再評価でもあった。  1927年からブランクーシのアシスタントを勤めたイサム・ノグチは、ここで「日本人のように、自然の精髄を取り出し、それを蒸留」(*3)することを教えられたという。このような下地が晩年のイサム・ノグチの作品に影響を与えている。この晩年の作品群は、ブランクーシの新石器時代にまでさかのぼる「抽象芸術」と、私達の文化のなかにある「隠されることの美意識」、「作為的表現の抑制」とに、深いところでの共通性があることを示しているように思われる。
▼脚註 (*1)アレックス・カー「イサム・ノグチのプレイグラウンド」 『PLAY MOUNTAIN イサム・ノグチ+ルイス・カーン』 マルモ出版、1996)から転載。 (*2)マルセル・ブリヨン『抽象芸術』瀧口修造、大岡信、東野芳明共訳、 紀伊國屋書店、1959 (*3)Cited in Sam Hunter, Isamu Noguchi, 1978 (邦訳:岡田隆彦「世界劇場としての庭」 『イサム・ノグチ あかりと石の空間』リブロポート、1985)