#6 ジャッド/デ・ステイル/神道建築
アーティストのドナルド・ジャッドは、彫刻作品を作るかたわら、1970年代から一連の家具の製作を始めている。テキサス州のマーファという小さな街に移住して、自身が使うための適切な家具が見つからないというのが発端で、ベッド、椅子、テーブル、机を作り始め、やがて家具作品のシリーズとなり、商業的に製作されるようになる。これは1991年製作の「chair」(W380×D380×H760mm)であり、材料は合板で厚さ10mmである。
「chair」by Donald Judd 1991 plywood, W380×D380×H760mm
Art Donald Judd Foundation / VAGA, New York & SPDA, Tokyo 200
写真提供:Gallery Yamaguchi
人間が視覚的把握をするに際して、1対1、1対2などの整数倍比率が重要であると考えていたジャッドは、しかしここでは、わたしたちが設計するときと同様に機能的寸法の問題に直面している。椅子の幅と高さは1対2の整数倍比率となっているが座面高さは中心より40mm高くして整数比例になっていない。座面の高さの倍数にすれば比例は整うけれど、家具としての機能、視覚的バランスの両方が崩れてしまう。そこで420・380・340という40mmずつの等差数字を使って座面高さ・幅・背板高さを決めている。抽象的な立体を作り続けながら自分の身長以上の大きさのものを作りたがらなかったジャッドは、ここで形と身体の適合について深く思考したといえる。 ジャッドは一方で、G・T・リートフェルトの「ジグザグ・チェア」「レッド/ブルー・チェアー」、更にあまり知られていない「ベルリン・チェア」「チューブフレーム・チェア」など、1917年から1930年代のリートフェルトの代表的な家具をコレクションしていて、第1次世界大戦直後のオランダの「デ・ステイル」の中で生み出された初期のモダニズムの部材、物質、フォルムについても深く吟味している。今では当たり前のことでもあるが、構成部材を別々の分離されたエレメントとして扱かって、それぞれのエレメントを分離したまま組み立てていくモダニズムの常套手法は、「デ・ステイル」の時代にはっきりとした形で登場したといえる。
「red / blue chair」 by Gerrit Thomas Rietveld 1918 wood, W650×D650×H880mm (photo : miniature) 幄舎立面図 正面/側面
リートフェルトは「レッド/ブルー・チェア」を次のように説明している、「このデザイン(部材を交差させる)はそれぞれのパーツを変形なしに集合させ、どの部材も別の部材に対し支配的でなく、また従属的でなく成立させる、この結果空間は明快で自由なものとなり、形は素材よりもより重要なものとなる」。分離されたエレメントとして、家具や建築の要素を扱う方法は、このあと急激に広まって数年後のバウハウスのアルバースによる同一断面による家具をはじめとした同時代の家具や建築に大きな影響を与えていく。部材の寸法の比率を揃えたり、一律に一定の厚みの部材にし、各部材を分離したまま、部材の要素を残したまま組み立てていく方法は、モダニズムがつくり出した考え方の主要なものの一つであって、いまなお、重要なファクターであり続けているといえる。リートフェルトがつくり出した分離したエレメント、それぞれが独立した部材の扱い方は、その後、動的バランスによる構成的なデザインとなって進化していき、ミース・ファン・デル・ローエによるバルセロナ・パビリオンの壁、天井スラブの分離したエレメントといったものに繋がっていく。

「デ・ステイル」から40年ほど経って、今度はドナルド・ジャッドが、同じように各部材を分離したまま、部材の要素を残したままで、静的で非構成的なものを造りあげていく。そもそも、部材をこのように全体から分離・独立したものとして扱って、部材相互の関係に序列を作らないようにする、という考え方は一つの特殊な好みと言うこともできる。「デ・ステイル」の時代には、形と構造の純粋性と説明し、その後合理化、匿名性、規格化と呼びながら近代性の証とされてきたが、このような分離したエレメント、独立した部材に対する考え方は、現在から見ると一つの美意識にすぎなかったのではないだろうかと思われる。

#5で紹介した神道建築の幄舎(あくしゃ)でも同様に、部材をこのように全体から分離・独立したものとして扱い、部材相互の関係に序列をつくらないようにして、ここでは結果的に非言語的・抑制的表現をつくり出している。このように考えると、私たちがモダニズムの重要な特徴だと思っているものは、単に20世紀がつくり出した美意識にとどまらない可能性があって、もっと広いフィールドの一つの美意識による表現方法として再解釈したほうが良いということができる。 して半年以上経った今、屋根材は銀灰色に変わって、落成したときの清涼ではあるがまだ生新しい印象が落ち着いてきている。精緻に切削されいったん抽象化された木材は、この新しい場所で新しい自然の時間を生きていくといえる。