#3 セザンヌと桂棚 その 1 |
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<Apples and Oranges> by Paul Cezanne |
Francis G. Mayer/CORBIS/CORBIS |
ポール・セザンヌがそれまでの絵画のパースペクティブな画法、線的遠近法に対して新しい絵画的方法を研究し続けたことはよく知られている。 たとえば、静物の代表作「リンゴとオレンジ」(1899年頃)では、遠くに置かれた水差し、見下ろしで描かれ皿に盛られたリンゴ、少し離れたコンポートのオレンジ、皿の向こうの果物類、少なく見ても4種類以上の異なったアングルのものが集められ、新しい構図のもとに描かれている。 セザンヌは、遠近感の違う、視線の高さの異なったものを、意図的に描いて新しい。画空間をつくりだそうとした。それぞれの部分を見ると、水差しが左に倒れており、オレンジの盛られたコンポートと水差しの大きさの比率が違い、皿とテーブルクロスは手前に滑り落ちそうに見える。 なぜこのような不自然な組み合わせをするのだろうかと思うけれど、一方でリンゴやオレンジや水差しやそれぞれのモチーフを順繰りに眺めていく楽しさは格別で、感受性あふれる視覚的体験でもある。 |
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「リンゴとオレンジ」の模写パース |
試みにセザンヌが描いたそれぞれのモチーフを、本来のパースペクティブな構図のなかに置いてみると、モチーフと回りの空間が他の空間と関連付けられながら綺麗に整理されていく。 もともとの絵に感じたアンバランス、ズレ落ちそうな感じはなくなって、きちっとした整った一連の空間が浮かび上がってくる。しかし一方で、それぞれのモチーフはパースペクティブな空間の秩序に従属し、本来の絵画にあった順繰りに眺めていく楽しさは弱められてしまう。 |
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S君の視線の移動 | Bさんの視線の移動 | K君の視線の移動 |
S君は水差しから始まる下向きの視線の移動から右に回っていく。Bさんは中央の1個のリンゴから皿のリンゴを経て右に回っていく。K君はコンフォートの足元からふらつきながら右に回っていく。それぞれは、このような回り方をしながら、2回転、それ以上と視線を移動させていく。 たとえば、画面の中央の一つだけのリンゴは、左の皿とぎりぎりの間隔に配置されていて、自然に視線は連続する。ここまでくると、その上のコンポートに置かれたオレンジへは図形が重ねられ、しかもコントラストが強いのでひきつけられ移動する。しかし、ここで遠近法の座標の違いを飛び越えていく。そのとき座標の違いを確認するように、眼はフォーカシングを取り直す。そして、次の水差しへと進んでいく。 接近した画像を眺めるとき、私たちは無意識にその像のどちらが前にあるのかを確定しようとし、そのことは結果としてフォーカシングの確認をし、関係を再定義させていく。私にはそのように見えてくる。 そうであるかどうかはともかく、このような視線の移動は、結果として、鑑賞するリンゴとかオレンジという、そのもの自身の世界へと私たちを深く導いていく。 前回、利休の「桐袋棚」では、非対称のカタチを追いかける視線が、部材それぞれの動きを追いかけて立ち止まり、また次を追いかけていくことを紹介した。利休の「桐袋棚」とセザンヌの「リンゴとオレンジ」には、視線の移動において共通したものがあると言うことができる。 一概に比較することは出来ないが、1900年頃にセザンヌがチャレンジした線的遠近法に対する新しい絵画表現は、非対称な視線流動という側面を持っており、このような点で日本は16世紀後半の茶の湯の時代に同様な傾向を体験したと言ってもよいように思う。しかし一方で、大きな違いを持っていることも確かである。 そこで次回はこの点について、桂離宮にある「桂棚」を例にして話を進めることにしよう。 |