#1 李朝のミニマリズム

 李朝 床(sung) 19世紀

李朝とは、韓国に14世紀から1910年日韓併合まで存在した朝鮮王朝のことである。李朝工芸品の質の高さは日本美術に大きな影響を与えている。室町時代の「侘茶」の原点となった茶碗類や、大正・昭和の「民芸運動」の白磁・家具木工品・民画などがその代表的なものである。

写真の「床(sung)」は19世紀朝鮮王朝のもので、側板がのびて脚部を兼ねているが、あとはシンプルな箱状のカタチをしている。H250・W900・D215、矩形部分はH180・W900、1対5の横長比である。用途は文房具や本を置いておくためのものである。初めて見たひとは、このシンプルな表現が19世紀のものであることに驚くかもしれない。しかし李朝家具はこんな簡潔さが基本にあるのだ。人為性や工芸性のなかの過剰なものを抑制しようとする気持ちが背景にあって、結果として簡潔さと自然さがうまれている、それが現代性を感じさせるのだ。 これは、そのなかでもとくにシンプルで現代的なもので、思いっきり延ばされた横長のプロポーションは「はっ」とするような長さがある。いつも想像よりちょっとだけ長のだ。

ふつう家具には「目の落ち着きどころ」というものがあるのだが、引き延ばされたプロポーションがこれをうち消して拡散し、その結果、家具自身に抽象性を与えている。本や文具を置いても抽象的な印象は崩れない、木口の簡素な繰型がいくぶん強調されて、微視的な手触り感が増すだけである。 家具のイメージを抑制し、人為的な表現を押さえ、その結果、抽象的な印象をつくり出す。これは李朝家具の一つの特徴であるが、しかし李朝に限ったことではない。東洋の思考には、表現することの抑制が自然に働いていて、それが、ひとつの美意識を形成しているといえる。
 無題 1987 陽極処理したアルミニウム、薄黄のプレキシガラス 
 (ドナルド ジャッド) 25×100×25cm
Art © Donald Judd Foundation / VAGA, New York & SPDA, Tokyo
2003co-operation:gallery yamaguchi
しかし一方で、このような意味の抑制、作為的な表現に対する抵抗は、20世紀後半の現代美術の特徴の一つでもある。 ここにあげた作品はドナルド・ジャッドの1983年のものでアルミニュウムとプレクシガラスからなっている。H250・W1000・D250、1対4の横長比である。 この作品を初めてみたとき、中になにも入っていない箱形の、ただの空洞が目の前にあって、単なる簡潔さに出会った、そんな爽快感を体験したことを思い出す。 今改めて、他の作品を見直すと、単に純粋な箱形をつくってたわけじゃないことがわかる。なぜかというと、見る側が囲まれた中に、なんらかの意味・イメージを自然に生み出してしまうからで、これを慎重に排除していることがわかる。

たとえばこの作品のようにまず十分な横長比をつくり出して、空間を引き延ばし、部材を加えて非対称にする。別の作品では、箱の中央部分に仕切のピースを入れて中心を解除する。また別の作品では、箱形を水平に何個も並べて、列をつくり出す。 イリュージョンのない純粋な三次元立体の体験がジャッドの重要なテーマであったのだが、そうはいっても、見る側はいろんな気持ちで見ようとし、抽象的なものにも何らかの意味を加えようとする。 ジャッドが1対4とか1対2といった、箱の整数倍比率にこだわったのも、同じ理由からで、簡潔な比例はそこで意味の追求が終わって、見る側はそれ以上意味を求めようとしないからである。 と、ここまでやってくると私たちは李朝の家具と、ドナルド・ジャットの作品が、意味の生成の抑制と、抽象性の保持に対して同じような道をたどっていることがわかる。

私は、このことが朝鮮時代の美意識の背景にあって、しかも日本の伝統的美意識にも深い共通性があると思うのだが、それは今回のテーマではない。むしろ20世紀後半の現代美術の歩みが、私たちの伝統的な美意識に抵触したといった方がよいのではないのだろうか。 しかし反面、李朝家具とドナルド・ジャットの作品には大きな違いがある。たとえば李朝では、手触り感が付加されていて、ジャットの作品では素材は生のまま扱われている。また、李朝では部材相互の関係も整数倍比例に留まっているわけではない、このようなことが結果的に、自然なありよう、静かさ、内省的な質の違いを生み出していて、この点では両者は単なる家具・美術品の違いを超えて、大きな隔たりをもっているということができる。

ドナルド・ジャッド

談=山口孝comment by Takashi Yamaguchi
ドナルド・ジャッドが亡くなる(1993年1月)前と後では、彼の評価や美術業界の捉え方が、流通も含めて極端に違います。
彼に関する書籍は亡くなった後に数多く出版され、展覧会も亡くなってからの方が活発に行われています。一方、生前のジャッドはこれほどまで評価されていなかったといえるでしょう。彼は美術に対してあまりにも純粋であり、いわば正当な道を歩み、主張もしていました。そして会話をするのにも難儀な人??。つまり、「難しい人」という印象を与えていたようです。そういう面もあって彼と接触する人は少なく、本当の彼の姿を知る人も少なかった。ただし、美術専門家の間では、生前から既に高い評価を得ていました。興味深いのは、彼を最初に認めたのがヨーロッパの美術館やコレクターだった点。所蔵されている作品数もアメリカよりヨーロッパの方が多いくらいで、まずはヨーロッパで評価されてから、その後にアメリカで評価されるようになっていきました。そもそもNYのSOHOを中心としたアメリカンアートの客は、そのほとんどがヨーロッパ人だったこともありますが、それは60年代、特に「ミニマル系」と呼ばれた作家はみんなそうだったんです。

日本でジャッドが評価されはじめたのは、彼のまさに晩年。1992年の静岡県立美術館と北九州市立美術館で巡回展を開催した際には、現代美術の展覧会としては異例なほどたくさんの人が訪れています。ただ、現在も「一般的になる」までには至っていません。また彼が建築としての作品を残していることも、あまり知られていません。ジャッドの建築とデザインについても、今後さらなる評価が期待されます。